訃報:平尾誠二氏の冥福を祈る

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iu 今月20日、京都の生んだ史上最大のラグビー界のスターの1人、平尾誠二が53歳の若さで逝った。報道を聞いたラグビー好きの多くの方は、「ついに来たか」との思いをもたれたであろう。ワールドカップの頃から目に見えてやつれが目立ち、病状の悪化は明らかだったからだ。奇しくも、ちょうど訃報の前日に、我が家でも平尾の病状を話題にしたばかりだった。

平尾誠二は、とくに京都の50歳前後のラグビープレーヤにとっては、高校時代から「生きた伝説」そのものだった。親戚と言われたH選手(彼もものすごくいい選手だった)は、同じキャリアを歩むも比べられて大変だったろう。その時代の同志社大学に才能が集まった理由の一つは、平尾への憧れであり、彼が体現した自由だった。

私たちは、平尾の伏見工業での劇的な全国制覇、同志社で3連覇(釜石との日本選手権は、高校時代の正月の風物詩だった)、神戸製鋼での7連覇をリアルタイムで観戦した世代である。それらのビデオも何度見たかわからない。

彼のプレーの一つ一つに、彼の言葉一つ一つに、私たちは、大なり小なり喝采を送ったのだった。それが見たり聞いたりできないのは、やはりさみしい。

しかしながら、プレーヤーとしてのあふれる才能は、指導者としては開花するところまではいかなかった、とみるのは意地が悪いだろうか。21日付けの京都新聞のあるいはweb上の証言者たちが言うように、たしかにプレーヤー時代から平尾はグラウンド上の指導者だった。しかし、引退した後に、自分ほど才能を持たない者たちへの指導においては、歯がゆい思いが強かったのではないか、と容易に想像される。早すぎた日本代表監督時代には、期待されながら、自らの好んだプレースタイルは異なる手堅い戦略をとらざるを得なかったし、連覇達成後の神戸製鋼でも、思うようなラグビーを展開できなかった。

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個人個人の判断が瞬間瞬間の生まれるスペースを感じ取り、そこにめがけて自由に人とボールが動くようなラグビー。

平尾が指揮を執り、彼の理想を体現するようなチームが現れることを望むことは、もうできなくなった。それが残念でならない。

後に続いた多くの名選手にとっても目標であり、憧れであった。それは私のような京都の平均以下のラグビープレーヤーにとっても同じであった。

平尾誠二様。心より冥福をお祈りいたします。どうぞ安らかに。

(管理人Rugbyloversの個人的見解です)

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